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私の履歴書

 無名の県立高校でビリだった私が、何故学校創立以来初の早稲田大学法学部の合格者になれたのか、そのきっかけとなった出来事とその後の人生についてご紹介します。

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●第一章
「自分は頭が悪い!」ということに気づいていなかった高校時代
❶何と受験者全員が合格!ラッキーに恵まれて高校へ進学 

 大学受験の話をする前に、私の高校受験についても触れておきたいと思います。
 私は神奈川県の公立中学に通っていましたが、当時の神奈川県の高校受験は、「15の春は泣かせない」と言うキャッチフレーズの元、生徒全員がどこかの高校に入れるように、中学校間で事前調整がなされていました。
 当時、神奈川県にはアチーブメントテストと言う全公立中学の生徒が受験する9科目のテスト(主要5教科+保健体育・美術・音楽・技術家庭)がありました。
 高校の合否は、内申書とアチーブメントテストの成績が75%、入試が25%となっていましたので、余程のことがない限り入学試験での大逆転がない代わりに、受験前にほぼ合格が決まっていました。
 何故なら、中学校間で調整をして、成績順に受験者を切っていたからです。
 例えば学区で1番のK高校には、A中学からは15名、B中学からは10名と予め合格する見込みが高い生徒だけを受験させることで、不合格者を少なくしていたのです。
 中学三年生当時、私はクラスで10~15番目位(学校全体では恐らく60番目位)の成績だったと思いますが、そんな成績にも関わらず、「学区で1番は無理にしても2番目の高校くらいには入れるだろう」と安易に考えていました。
 ところが担任の先生との面談で、現実を突きつけられます。
 「hossieくんはS高校を受験したいようだけど、今の成績だとA高校が妥当なところです。そこだってそんなに簡単ではないですよ」と、学区で4番目の県立高校を受験するように言われました。
 当時私の学区で受験可能だった高校は9校でしたので、4番目のA高校と言われても、「え!? まさかそんな筈は…」と現実を受け入れられませんでした。
 自分は勉強が出来ないということに全く気付いていなかった私は、「どうなっても知らないよ」と言う担任の先生の言葉に耳を傾けず、我を張り通して学区で2番目のS高校を受けることにしました。
 学区で2番とは言っても、当時の神奈川県は小学区制で、しかも私が受験するS高校は、限りなく3番に近い2番でした。
 それでも私の当時の学力ではS高校に合格する可能性は極めて低かったのですが、思わぬ奇跡が起こりました。各中学校間での受験調整が上手く行き過ぎて、募集定員と受験者数が同じになったのです。
 調整はレベルの高い学校から順に行いますので、上位高ほど競争率が低く、むしろ下位の高校の方が競争率は高くなるのが通例でしたが、それにしてもラッキーでした。
 私が受験したS高校は、受験者405人、合格者405人。かくして私は無事にS高校に合格することが出来ました。もうワンランク下(学区で3番目)のSY高校だったら、不合格になっていたかもしれません。倍率が1.1倍くらいありましたから。
 兎にも角にもラッキーで合格したのですが、当時の自分にはそういう認識はなく、「希望を通したら何とかなった」程度にしか思っていませんでした。
 なかなか気づかないんですよね、自分が駄目だってことに。
 この時点で挫折していれば、もう少し自分の馬鹿さ加減に早く気づいていたかもしれません。お蔭で自分は勉強が出来ないダメ男と気付くのに、さらに3年の年月を要すことになりました。

 余談になりますが、中学3年生の頃にゲームにはまってしまい、数人の友人達とゲームセンターに入り浸っていました。
 子供達にはとても言えませんが、実は高校入試の日の朝も「気合を入れる!」と言って、行きつけのゲームセンターを朝から開けさせ、ゲームをしてから受験に行きました。
 この頃はギャラクシアンや平安京エイリアンと言ったゲームに夢中になっていたのですが、本当にふざけた中学生ですよね。受験生の皆さんは、絶対に真似をしないようにしてください。

 次の頁は『❷部活に明け暮れ、全く勉強をしなかった毎日(カノッサの屈辱で0点を逃れる)』です。
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