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私の履歴書

 無名の県立高校でビリだった私が、何故学校創立以来初の早稲田大学法学部の合格者になれたのか、そのきっかけとなった出来事とその後の人生についてご紹介します。

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●第五章
いざ早稲田大学へ 大学で出会った破茶滅茶な仲間たち
⓰どうせ「がり勉」しかいないだろうと思っていたら…

 大学に入学すると第2外国語を選択する必要があります。選択した外国語によってクラス分けがなされ、1、2年生時は語学のクラスが学校生活の基本となります。
 私は第2外国語に中国語を選択しました。フランス語やドイツ語などは、頭の悪い自分には理解できそうな気がせず、中国語なら漢字っぽいから勉強しなくてもある程度分かるのではないかと考えたからです。
 4月に入り、第一回目の授業が行われました。初回は自己紹介から始まりましたが、それこそ全国津々浦々から色々な個性を持った学生が集まっていました。
 茨城県のM高出身のN君は「茨城ですから、なまっています」と物凄くなまった言葉で挨拶したため、皆に大爆笑され、それ以来クラスではあまり口を利かなくなりました。
 附属高出身のH君は、「附属出身で英語が全然出来ないので、テストの時は皆さん宜しく!」なんて挨拶をしていました(因みにH君は、1年留年したものの、大手不動産会社に就職し、今は関連会社の社長をしています)。
 自分は高校時代、運動部で鍛えてきたと言う自負があり、「どうせ早稲田に来るような人間はヒョロヒョロのモヤシみたいな奴か、がり勉タイプの奴ばかりだろう」と思っていました。
 ところが実際に会ってみると、全然違っていました。
 勿論がり勉タイプで服装も超地味な人も結構いましたが、それよりもむしろバリバリに運動して来た人たちが沢山いたのです。
 この時私は、勉強が凄く出来る人間には、運動も含めて全て出来る人間が沢山いるということを初めて知りました。
 ただ、凄いと言う意味では、彼らの怠けっぷりがまた凄かったのにも驚かされました。
 今考えてみると、我々のクラス(語学のクラス)のメンバーが特殊だったのだろうと思いますが、兎に角遊ぶことが大好きなメンツが揃っており、これでよく早稲田大学法学部に入って来たなと思うような連中ばかりでした(もちろん私もですが)。
 特にひどかったのが、大学の定期試験でした。「まともに勉強はしないけど単位は落としたくない…」そうなると”してはいけない手段”を使うしかありません。
 私は彼らと一緒に試験を受ける中で、ありとあらゆる”してはいけない行動”を見て来ました。幾ら年月が経ったとはいえ具体的な内容は書けませんが、とにかく凄かったんです。
 普段から怠けてばかりいる連中でしたが、こういう知恵?を出すことに関しては、まさに天才的でした。試験の度に新たな手法を編み出す彼らには、毎度驚かされていました。
 そしてさらに凄いのは、それでも何人もの仲間が留年したことです。他の大学と比べて、入学したら卒業は比較的楽と言われていた早稲田ですが、私のクラスでは1割くらいの仲間が留年となりました。
 とんでもなくふざけた連中ばかりでしたから、教授にも怒られてばかりで、ある教授は怒り狂って「君たちは早稲田大学法学部史上最低の学生だ!!」と顔を真っ赤にして怒ったことがありました。
 そんな連中も、遊びやサークル活動の中ではリーダーシップを発揮し、皆を引っ張る能力を持っていたり、人間的な魅力を持っている人が多く、いくら馬鹿なことをしていても、どこか可愛いところがあって憎めないのです。
 そうした能力や人間的な魅力は、社会人になって大きく生かされるのでしょう。
 現在50代半ばに入った我々の仲間は、それぞれの就職先で立派に仕事をしています。
 数年前からクラス会が行われるようになりましたが、卒業から30年以上経った今、彼らは馬鹿はやっていたけど、本当は優秀だったんだなと改めて気づきました。

 当時の就職についてですが、我々が大学を卒業した時代は、まさにバブルの真っただ中、「優」が一桁の人間でも、早稲田大学と言うネームバリューで一流企業に就職できる時代でした。
 「でも入ったは良いが、そんな学生が一流企業の中でやって行けるのか?」そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、結論から言うと、むしろ十二分にやって行けます。
 何故なら本当に出来ないのではなく、実際には能力を持っている連中だったからです。
 早稲田大学法学部に入る人間の多くは、もともとの潜在能力が高いのだと思います。確かに当時、みな堕落した生活をしていましたが、本当はやれば出来るんだということを社会に出てから見事に証明しています。

 次の頁は『⓱「君たちは早稲田大学法学部史上最低の学生だ!」と教授に言わしめた仲間たちのその後』です。
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